旭区の歴史と文化

午前:室内講座

午後:まち歩き「京街道をゆく」

今日案内してくださるボランティアガイドの皆さん

京阪電車「千林駅前」に集合、出発

昭和32年千林駅前にダイエー1号店が開業。

イズミヤ、ニチイの発祥地でもある

千林商店街を抜けていく

テーマソング〜♪いちいじゅうひゃくせん せんばやし〜♪

旭区命名の由来:大阪市東部に位置していることから、旭日昇天のごとく将来において輝く、と命名されたとのこと。

 

そういえば千林商店街のテーマソングも、「♪光あふれる輝きと溢れる笑顔に迎えられ、いちいじゅうひゃくせん せんばやし〜♪」であったような。

強頸地蔵尊

すぐに扉が閉まるので押さえててくれました。

淀川の氾濫を防ぐため、武蔵の人「強頸」が人柱として池に身を投じたのを供養する。

九棟長屋

昭和12年に國産のヒノキと高級銅板、三河の瓦、タイルで建てた。

朝日地蔵尊

通称:酒吞み地蔵さん

 

東向きで朝日を浴びている地蔵。歯痛のご利益があり1週間お祈りしてご利益が出ればお酒をかけてあげる。

京街道

「きょうかいどう」のマンホール発見

伏見城の築城の折に豊臣秀吉が毛利三家(毛利、小早川、吉川)に堤防に陸路を築かせた。京都から大阪城の京橋口までの街道で江戸から大阪まで57次の東海道となった。

 

木犀の陣屋跡

大庄屋「浅田家」の園庭にあった木犀から出る香りが関目まで漂った。徳川家茂をはじめ多くの大名が守口宿から浅田家に替えて宿泊した。

大宮神社

元は大宮八幡宮といい、応神天皇を祀ってり文治元年(1185年)

に創建された古社。源義経が平家追討でここを通りかかった時に霊光があり神殿を建てた。ここは鬼門にあたることから秀吉は鬼門守護神として再建した。

八幡大神宮、古市神社から明治45年(1912年)大宮神社と改めた。

立派なカラー印刷の社報

改修の変遷がよくわかる

休憩中ではありません

資料熟読中

一見すると休んでいるようにも見えますが

いえいえ、とんでもない!

 

資料熟読真っ最中です。

いぼ大神

霊験あらたかなるモチの木

モチの老木を撫でるといぼや吹き出物が治り霊験あらたかと熱く信仰されてきた。

淀川旧堤防跡

大宮小学校の外柵に添って存在

確かに急坂でした

明治18年の淀川大洪水で河川改修がすすみ北へ500m移動し付け替えられた。(明治43年)ここは淀川の古い土手の跡です。

樋管統一水路

昔は淀川の水を田畑に引き込むために堤防に穴を開け引き込んでいたため堤防決壊の原因になった。昭和9年に枚方大橋の上部から合同樋門を作り統一用水路とした。昭和49年に完全暗渠化をした。

大阪工業大学 メモリアルゲート

まるで中之島の中央公会堂そっくり

 1992年創立70周年記念事業として建築された、赤レンガ作りの正門です。学校創立者の片岡安(やすし)工学博士の設計した 大阪市中央公会堂を模して建てられた。

淀川とワンド

オランダの土木技師デ・レーケは淀川の大恩人

淀川は3回の大きな改修工事が行われた。1、明治8年オランダの土木技師デ・レーケによ・「ケレップ水制」で川の中央都が流れの早い水路を作り蒸気船が運航できた。

2、明治18年の大洪水の後、城北地区から大阪湾まで直線的な川に改造し明治43年に完成した。

3、昭和46年に淀川大堰、スーパー堤防計回され昭和58年(1983年)に完成した。

千人塚

わずか70有余年前の痛ましい現実

昭和20年6月7日大阪大空襲で米軍戦闘機の狙い撃ちで死亡した千数体の遺体を荼毘に付された。犠牲者の冥福祈り、故東浦栄二郎さんが庭石に「仙人塚」と刻んで建立した。

防災基地としての城北公園 1

「飲料用耐震性貯水槽」碑の前で

城北公園の地下に、市内で初めてとなる4百トンの飲料用耐震性貯水槽が設置されている。
◉ 災害直後の 3 日分、一人一日3リットルで 4 万 4 千人分の飲料用など、必要最低限の水を確保している。
◉ 直径3メートル、長さ 57 メートルの水道管がU字型に埋設されている。

防災基地としての城北公園 2

これはなかなかのもの、公園内に50か所の非常トイレ

これはなんと非常用トイレ。公園内に50か所もあるそうです。

 

この上に仮設トイレを設置します。りっぱな水洗です。

防災基地としての城北公園 3

ひろーい公衆電話

この堂々たる広さの電話ボックスはありがたい。

近頃は防災の観点から見直されているらしい。

全員集合したのでここで解散!!

みなさんお疲れ様。

ボランティアガイドのみなさんありがとうございました。